百八観音の由来

観音菩薩がカトマンズにやって来た由来

仏教の諸々の大菩薩の中で、観音菩薩は最も深く人心に入り込む菩薩で、「慈悲」の化身であると言われています。遠く2000年もの昔から仏教が流伝した地域では、観音菩薩は人々に敬われ、信仰されてきました。殊にアジアでは、「アジアの半分を占める信仰」の呼び名があります。

釈迦牟尼仏の生誕地であり、仏教が最も早く流伝した地域の一つ-現在のネパールに於ける観音菩薩信仰は驚くに値しません。ネパールの首都カトマンズには、世界でも唯一の観音菩薩の一〇八種の化身が祀られている寺院があるのです。では、観音菩薩は、どうしてカトマンズにやって来たのでしょう。

ネパール考古局の元副局長スクラ サガール シュレスタ(Sukra Sagar Shrestha)教授は、霊鷲山テレビ局の制作チームが、ネパールに赴き収録した際、インタビューの中で、次の様に述べられました。「伝説によるとその昔、この地は12年もの間、雨が降らず、土地も乾いて、ひび割れができたそうです。もちろん作物も生育せず、人々は非常に苦しんでいました。その時、観音菩薩が元々住んでいた所からカトマンズにやって来て、人々をこの干害から救ってくれたそうです」

ミン・バハドゥール・シャキャ(Min Bahadur Shakya)教授の著書『Iconography of 108 Lokesvaras』の中のインド文献史の叙事詩の部分に、『スワヤンブプラーナ(Swayambhu Purana)に、以下のような伝説があると記されています。「遥か昔、カトマンズは14km四方の大きな湖で、湖の中央には千本もの花弁のある蓮華の花が咲いていました。自生仏陀聖尊-スワヤンブ(Swayambu)は燃え盛る炎の中で、文殊菩薩はマンジュデワアーチャーリヤ(Manjudeva Acarya)の化身となり、この湖の水を吸い出せば、この地は人々に幸せな宝の地を与えることが出来るだろうと考えました。しかし、この行動は湖中に住むクリカ龍王(Kulika Nagaraja)を激怒させました。龍王は故意に湖の水を溢れさせ、湖は氾濫。人々に水害の苦しみを与えました。人々はその苦しみの中で、真心を込めて三宝に帰依し、一心に観音菩薩の庇護を願いました。そこで観音菩薩は普賢菩薩をカトマンズに遣わせて、龍王を説得し、衆生を済度しました。クリカ竜王が普賢菩薩に降伏した後、人々の苦しみを解き、龍王也も仏法に帰依しました」

セト・マチェンドラナート寺院の歴史

カトマンズに位置する百八観音寺、即ちセト・マチェンドラナート寺院(Seto Machhendranath Temple)・またの名をJana Bahal)は、カトマンズで最も重要な、最も華麗な寺院の一つに当たります。“セト”は「白い」という意味です。この小さな巷ある寺院の線香の煙は絶えることはありません。ダルバール広場(Durbar Square)とインドラチョーク(Indra Chowk)の付近に位置していますが、入口には「全ての宗教の信者の方々のご参観を歓迎します」と書かれています。主殿内に安置されている本尊の白観音は、ヒンドゥー教ではシヴァ神の雨神の化身とされているため、参拝する人は、仏教徒の他に、多くのヒンドゥー教徒もいます。

セト・マチェンドラナート寺院の歴史は悠久で、多くの伝説・故事があります。伝説に依ると、その昔、カトマンズはまだ存在しておらず、当時この地はジャンブル(Jambur)と言う名の小さな国でした。国王の名はヤクサマーラ(Yakthamalla)で、最初にセト・マチェンドラナートを建立した人物だそうです。当時の寺院は川岸に建てられたそうです。つまり現在のインドラチョーク(Indra chowk)、ネワール語ではワーガ(Woga)と言いますが、なぜこの地に寺院を建てたのでしょうか。当時、この地はバグマティ川(Bagemadi川)とジャグマティ川(Jiagemadi川)の合流点で、当時はカルモチャン(Kalmochan)と呼ばれる聖地があり、「死からの解脱」を意味しています。釈迦牟尼仏は曾て「ここで沐浴をした後、寺廟に行き、観音菩薩を拝むと、病の苦しみから解き放たれ、寿命を延ばして長生きをする事ができる」と語ったそうです。

セト・マチェンドラナート寺院は、いつ建立したのでしょう。目下確実な記録はありませんが、はっきりしていることは、17世紀に当時の人達が、この寺院を建て直したということです。ネパール考古局元副局長のスクラ サガール シュレスタ(Sukra Sagar Shrestha)教授は、「以前この寺院はKanakchaitya maha biharと呼ばれ、ネパール暦256年、リッチャヴィ朝のネパール国王ナレーンドラ・デーヴァ(Narendradev)の時期に、已にこの寺院に関連する歴史が記されている」と述べています。当時、この寺院から余り遠くない所に、もう一つの寺院(現在は遺跡のみが残されている)があり、故あって、何体かの仏像は現在のセト・マチェンドラナート寺院に移され、その後、徐々に寺廟が形成されました。リッチャヴィ王朝以前は、伝聞によると、カトマンズにあるKledolのこのセト・マチェンドラナート寺院は、釈迦牟尼仏のコーリヤ族の叔父の一族と関係があるとされ、彼らが住む一帯がKledolと呼ばれる所以となっています。19世紀にタンカを得意とする親子がここに訪れ、セト・マチェンドラナート寺院で百八観音像を描き、二十数年前に百八観音の銅像が製作されました。

では、百八観音はどのようにして生まれたのでしょうか。スクラ サガール シュレスタ(Sukra Sagar Shrestha)教授は、108体が一度に現れたのではないと考えています。観音菩薩の広大無辺の慈悲は、その無量無辺の化身を作り、衆生の煩悩や苦痛もまた無尽です。人々が観音菩薩に苦しみを訴え、祈ると、観音菩薩はさまざまな姿、名号で人々の前に現れ、それが集まって108体の観音になったということです。

1970年代、カトマンズで百八観音寺を研究した高岡秀暢法師は、大乗の『大蔵経』にも百八観音の名が登場していることから、百八観音はカトマンズ盆地で生まれた信仰ではなく、カトマンズに伝わった後、カトマンズ盆地がこ信仰を受け入れ、保存し、地元の独特な信仰へ発展したものであると考えています。百八観音の名号にはインドから伝わったもの、または中国語やチベット語の翻訳を組み合わせたものなど様々ですが、108体の観音像がカトマンズで完成したということだけは確かです。

 

ラト・マチェンドラナート寺の歴史

カトマンズの「セト・マチェンドラナート寺院」とは別に古都パタン (Patan

には「ラト・マチェンドラナート寺院」(Rato Machhendranath Temple)があります。“ラト”は「赤い」という意味です。1673年に建立され、赤い観音菩薩(ヒンドゥー教ではシヴァ神の化身の一つとされる)が祀られています。

2015年4月に発生したネパールの大地震で、多くの古跡や寺院が倒壊しましたが、ラト・マチェンドラナート寺院もその一つでした。取材に向かった霊鷲山テレビに対し、スクラ サガール シュレスタ(Sukra Sagar Shrestha)教授は「国連を含む多くの国がネパールの世界遺産に関心を寄せており、再建にかかるリソースには問題はない。政治や法的な問題を解決すれば、ラト・マチェンドラナート寺院も5~7年で再びお目見えできるはず」としています。

ラト・マチェンドラナート寺院の由来には多くの伝説や物語が伝えられています。ネパールの史学者であり、医療にも携わるSarbottam Shrestha医師によると、最も広く伝えられているのが、次のような物語だそうです(ただし史実とは限らない)。

その昔、あるヨギ(ヨガ行者)がカトマンズにやってきましたが、この見知らぬよそ者に、地元の人々は敬意を払うことをしませんでした。これを不満に思ったヨギは、神通力によってカトマンズの九匹の竜を捉え、自分の竜座にしてしまいます。竜が捉えられたことで、カトマンズには一滴の雨も降らず、12年にもわたる干ばつに見舞われることになりました。大地がひび割れ、人々が苦しむなか、国王は金剛師に対策を仰ぎました。竜を解放させる方法はただ一つ――ヨギの師匠に来てもらうこと。ではヨギの師匠とは誰でしょう。それが観音菩薩だったのです。当時のネパールの人々は、観音菩薩はある太子と化してインドのアッサムに住んでいると信じていたため、国王と金剛師は、観音菩薩をカトマンズに迎えようとアッサム(Assam)に向かいました。赤観音(観音菩薩)を無事に迎え、間もなくカトマンズに到着するというとき、赤観音はカトマンズ南の谷間にあるブンガマティ(Bungamati)に留まることを決めました。これを知ったヨギは竜座から降り、師匠に会いに行きました。

「この地に12年も雨を降らせないとは!人々を苦しめるべきではありません」――観音菩薩に諭されたヨギは竜を解放したため、カトマンズの干ばつもは解決しました。このような物語が広く伝えられているため、ネパールでは赤い観音菩薩は五穀豊穣の大菩薩として崇められています。

考古学者のスクラ サガール シュレスタ(Sukra Sagar Shrestha)教授によると、観音菩薩がラト・マチェンドラナート寺院にやって来る前、ここにはすでに大きな寺院がありました。考古学者の研究を経て、その寺院は13世紀に遡ることが発見されています。約200年余り前の修復時に、尖塔を備えたインド様式でありながら、ネワール族独特の屋根を持った造りになったということです。

ラト/セト・マチェンドラナート寺院の祭典文化

赤観音がカトマンズにやって来ると、干ばつも解決し、国王も庶民も喜びましたが、赤観音はカトマンズの町に足を踏み入れようとしません。そこで国王が赤観音に懇願します-「ここにずっと留まられても構いません。しかしカトマンズの町には菩薩様にお会いしたい、お近づきになりたいと思っている人々が大勢おります。どうか定期的に町にいらして、皆にその御姿を拝ませて下さい!」と。

赤観音はこれに同意し、半年間はブンガマティ(Bungamati)に、残りの半年はパタン (Patanに留まることにしました。赤観音がパタン(Patan)からブンガマティ(Bungamati)に戻る時に行われるのが、かの有名な「ラト・マチェンドラナート祭り」です。毎年4、5月になると、3階建ての高さの大きな山車に赤観音を載せ、百人がかりで曳いて町中を練り歩きます。赤観音は南のブンガマティ(Bungamati)に移動され、半年後に再びパタン(Patanのマチェンドラナート寺院に戻ります。

パタン(Patanからブンガマティ(Bungamati)までは約8kmの道のりがあり、祭りには大勢の人が参加するうえ、山車も少しずつしか進まないため、赤観音の巡行は7、8日間、祭り全体は約1カ月も続きます。赤観音を迎える前後には必ず厳かな儀式が行われる他、山車の制作にも相当なこだわりがあります。例えば使用する木材や藤の生産地、山車の高さや幅、制作する職人などにすべて決まりがあります。年間300以上もの祭りが行われるネパールにおいて「ラト・マチェンドラナート」は最も重要な祭典とされており、パタン(Patanに至っては、これこそが新年の儀式であると考える人も少なくありません。「ラト・マチェンドラナート祭り」は仏教徒だけの祭典ではなく、カーストや宗教を超えたネパール全国民の祭典なのです。

セト・マチェンドラナート寺院でも、毎年3、4月に「セト・マチェンドラナート祭り」が行われます。白観音を大きな木製の山車に乗せ、4日間かけて夜間に古跡から古跡へと移動し、最後はカトマンズ旧市街の南-ラガン(Lagan)に到着します。ご神体は山車から下ろされ、神輿でセト・マチェンドラナート寺院に戻り、山車は解体され、次の年までしまわれます。

白観音の祭りに比べ、赤観音の祭りは巡行距離が長く、参加する人数も多いほか、タム(Sarbottam Shrratha)医師の話によると、「白観音の祭りは巡行がメインだが、赤観音は巡行のほかにも、パタン(Patanでは豪勢なご馳走が振る舞われるため、お祭りムードはひときわ賑やかで、規模も盛大で期間も長い」いうことです。

ネパールの四大観音寺

ネパールではヒンドゥー教が盛んですが、カトマンズ山間部に住むネワール族はヒンドゥー教と仏教を厳密に分けていません。中国に伝わった漢伝仏教では「千処祈求千処応、苦海常作度人舟」(観音菩薩はすべての人々の願いを聞き入れ、苦海を渡る舟のように衆生を済度する)の観音菩薩が人心に深く定着したように、ネパールの仏教にも観世音菩薩信仰はあります。ただ、外国人にとって、ネパールは「ブッダの生まれた場所」としての印象の方が強いようです。

カトマンズ盆地には、赤観音2体、白観音2体がそれぞれ祀られている四大観音寺があり、なかでも考証が最も進んでいるのが百八観音寺――セト・マチェンドラナートです。本尊の白観音は「カルナマヤ」と呼ばれ、「慈悲に満ちた心」を意味します。ネパール語では「セト・マチェンドラナート」と言い、ネワール族にとってカトマンズの守護神です。白観音は東を向き、右手は与願印を結び、手のひらを前方に向け、左手に蓮の花を持っています。目は細長く、ややうつむき加減に視線を落としています。頭上には阿弥陀仏を頂き、左右には緑と赤の神像――AryatarとBadmataraを従え、彼らは観音菩薩が苦しむ衆生を目の当たりにしたときに流した2粒の涙から生まれたとされています。

同じく重要な存在が、参拝客の絶えない赤観音寺――ラト・マチェンドラナート寺院です。赤観音寺と白観音寺が年に一度開催する「マチェンドラナート祭り」は、この地方の最も盛大な祭典です。ラト・マチェンドラナート寺院の本尊である赤観音は、郊外のブンガマティで半年間、残りの半年はカトマンズの古都であるパタン(Patanで祀られます。その巡行は一カ月余りにわたって行われ、ネパールにとって最も重要な祭りであるばかりでなく、ネワール族にとっても「新年」に並ぶほど重視されている祭典です。

このほか、カトマンズ郊外のチョバール(Chobar)とナラ(Nala)に、それぞれ赤観音と白観音を祀る寺院があります。

カトマンズ旧市街(旧カトマンズ王宮付近)のセト・マチェンドラナートに祀られているのは瞻令嘎波白観音、パタン(Patan(旧パタン王宮付近)のラト・マチェンドラナートの本尊は布烏剛赤観音、カトマンズ郊外のチョバール(Chobar)の寺院では格隆瑪巴嫫赤観音(「Gelongma」は「比丘尼」の意)、ナラ(Nala)の寺院ではガナマイ観音を祀っており、それぞれ生命、富、病、子宝などの願いを聞き入れる神として地元の厚い信仰を集めてきました。命に危険を感じたときはカトマンズの白観音、富を手に入れたい者はパタン(Patanの赤観音、病に苦しむ者はチョバール(Chobar)の赤観音、子宝を授かりたい者はナラ(Nala)の白観音にお参りすることになっています。

インド化された観音菩薩/信仰名号/ネパールの観音修行

2500年余り前、釈迦牟尼仏は現在のネパール・ルンビニに生まれ、その生涯の活動範囲は、主に現在のインド北部とネパールだったと言われています。インドと同様、ネパールもヒンドゥー教が中心ですが、学者の間では、ネパール(特にネワール族)は原始仏教の教えを守り続けていると考えられています。2000年余りの歳月のなかで、ヒンドゥー教と仏教はネパール(およびインド)で絶えず交流し、ついには宗教と文化が「混ざり合う」展開となり、なかでもセト・マチェンドラナート寺院は、ヒンドゥー教と仏教が融合した典型的な例です。

“マチェンドラナート”はヒンドゥー教のシヴァ神の雨の化身であり、カトマンズ盆地の守護神ですが、同時に仏教の観音菩薩の化身であるともされています。

百八観音寺――セト・マチェンドラナート寺院の“ローケーシュヴァラ”(Lokeśvara:観自在/観世音菩薩)が“マチェンドラナート”(Machhendranath:シヴァ神の雨の化身)となった理由について、ネパール考古局元副局長のスクラ サガール シュレスタ(Sukra Sagar Shrestha)教授は、次の様に述べています。「その昔、マッラ朝のある国王がヒンドゥー教を国教にするため、仏教のなかの菩薩をすべてヒンドゥー教の神々に置き換えたのが始まりで、最初にパタン(Patanの“ローケーシュヴァラ”が“マチェンドラナート”に変えられ、ほかの地域の菩薩もヒンドゥー教の神に置き換えられていったのです」と。

ネパール人の観音菩薩信仰は、明け方に女性が寺院の前で経を唱えるほか、スクラ サガール シュレスタ(Sukra Sagar Shrestha)教授によれば「観音菩薩の名号を唱えたり、ご神体の周りを回り続けたり、昼を過ぎたらものを食べないなど、修行の方法はさまざま。どんな方法でも、汚れのない敬虔な心が重要」だと言います。大がかりな修行は、「百八観音寺に泊まり込み、一カ月間、甘露水のみをとる断食を行います。一カ月後、体力は落ちるものの、とてもはつらつとしています。また、観音様を拝むときに使用するものは、清浄を象徴する白でなくてはなりません」