108百八の源を追う

人間に取り残された仏陀の教法

仏陀及びその教法-カトマンズ流伝説/アショーカ王が建立した四本の仏塔

ネパールはインドの北部に位置し、約二千年前にはインドに含まれていました。当時のシッダールタ太子(後の釈迦牟尼仏)が生まれた地は、今日のネパールのルンビニ(Lumbini)です。仏陀は悟りの道を開いた後、四十九年間説法をし続けました。釈迦の行跡は現在のインドの北部とネパール一帯だったため、仏教がネパールに伝来した時期も早く、仏陀の時代にすでに流伝していました。

考古学者のスクラ サガール シュレスタSukra Sagar Shrestha教授の話しによると、「仏陀の時代に、彼の一番弟子であるアーナンダ尊者が、曾てカトマンズにやって来た時のこと。丁度その時期は冬で、裸足のアーナンダの足はあかぎれになってしまった。その後、仏陀の側に戻ったアーナンダに仏陀は慰めの言葉をかけ、『ご苦労であった。今後厳寒の際は、履物を履いても良いと話された』とするエピソードが残っているそうです。

仏教がネパールに伝来して、二回目の盛んな時期を迎えたのは、インドの孔雀王朝(マウリア朝)アショーカ王の時代です。アショーカ王は仏教を大いに鼓舞し、ネパールにまで赴いて仏法を広めました。その際、小さな娘(公主)も連れて来ました。その後、この公主は縁あって、カトマンズの人に嫁ぎました。そこで、アショーカ王は、カトマンズのパタン地区の東、西、南、北の4箇所に仏塔を建ててパタン地区を囲み、中央にも1本の仏塔を建てました。今日に至っても尚、斎戒、或いはお祭りの時になると人々は皆やって来て、仏塔を廻ります。殊に、旧暦七月の夏安居(げあんご)や法会の時には、大勢の人々で賑わい、仏塔を供養したり礼拝したりします。

ネワール文化とは何か?/チベット仏教大師の大集会

「ネワール人」とは、昔から何代にもわたりカトマンズの谷間の村落に住んでいた人達を指します。1959年、ネパールにやって来て、ネワール文化を研究し、17年も当地に滞在し、その後ネパール国籍を取得したアメリカの学者、ジョン ケリー ロック(John Kerr Locke)氏の書《Karunamaya︰The Cult of Avalokitesvara-Matsyendranath in the Valley of Nepal》(注:カルナマヤ(Karunamaya)はジャナ・バハール寺院(Jana Bahal Temple)に奉られている主尊-白観音で、「慈悲に満つる心」の意)の中には次のような記述があります。「カトマンズの谷間に住んでいる住民の約半分がネワール人です。多年にわたり、多くの民族と文化がこの地で出会いました。ネワール人は古くからチベットと非常に密接に交易を行っており、同時にカトマンズの谷間はインド仏教徒にとって最適な避難場所でもあったのです。谷間には北方と南方からやって来た新しい移民がこの地で溶け合い、ネワール人に成ると同時にネワール社会を形成しました。このため、ネワールは一つの民族ではなく、一種の文化-つまり、ネパールの谷間に於いて形成された豊富で複雑な文化なのです」と。

ネパールのナーガールジュナ出版社(龍樹出版社)社長のタム(Sarbottam Shrestha)医師のお話によると、ネワール人の中には20以上の民族があり、黄色人種も白色人種もいますが、互いに通婚はしないため、血統は比較的純粋です。彼らの共通点はネワール語を話し、同様の生活様式と習慣を有している点です。

6世紀以降、イスラム教の勢力がインドに入り込んで勢力を徐々に増し、8世紀-9世紀になると、ヒンドゥー教と仏教に圧力をかけるようになったため、多くの仏教徒が災いを逃れてカトマンズの谷間にやって来ました。当時仏教はチベットでも発展を遂げ、常に互いに学んだり交流したりしました。12世紀になると、イスラム教はインドの主要の宗教となり、ヒンドゥー教と仏教は殆ど其の存在を失い、その結果、仏教はカトマンズで存続される形になりました。仏教の大学も創立され、多くの殊勝な金剛上師がここで講義を受け、学侶の中には、遠くチベットやモンゴルからやって来る人もいました。

タム(Sarbottam Shrestha)医師の話によると、8-9世紀、チベット仏教が発展し始めた頃、何人かの仏教大師がチベットに行く前に、カトマンズで弘法や修行を行いました。例を挙げると、パドマサンババ(Padmasambhava)はカトマンズの谷間で少なくとも12年以上生活。もう一人のアティシャ(Atiśa)尊者も暫くカトマンズに居留。またマルバ(Marpa)大師もパタン(Patan)で3年間の修行をしたそうです……仏教に大きな影響を与えた多数の大師達は、皆カトマンズからチベットに向かいました。千年も前にチベットの仏教大師達はカトマンズの谷間に雲のようにたくさん集まりました。これらは全て、歴史書に記載されています。

人間に取り残された仏陀の原始仏教---ネワール仏教

釈迦牟尼仏は二千五百年前に誕生しました。釈迦が創立した仏教は流伝して今日に至っており、世界の数多くの国に仏教の修行者と仏の弟子がいます。しかし、時間の流れに従って、地域の異なるものが流れ込み、仏教も異なる伝承や流派が存在するようになりました。その中では、大乗仏教(漢伝仏教)、小乘仏教、(南伝仏教)と密乘(チベット仏教)は人々によく知られています。ところで皆様は、ネワール仏教をご存知でしょうか?

仏教は、インドやネパール地域に於いて、長い間で主要な宗教とは見做されず、常に抑圧されて来ましたが、ネワール人は仏教を信仰し続けて来ました。考古学者のスクラ サガール シュレスタ(Sukra Sagar Shrestha)教授は、この様に語っています。「ネワール語を話すのは、全てネワール人であり、仏教を信奉するのもネワール人です。ネパールにいるネワール人は国王に成ることはできず、国王は全てヒンドゥ教を信仰していたため、ネワール人は長期に渡って苦労を強いられて来ました。幾世代にもわたり仏教を信奉してきたため、圧力をかけられてきたのです。国王に成れないだけではなく、出家も許されませんでした。出家するには国を出なければならず、でなければ還俗せざるを得なかったのです。そのためネワール人は長期に亘って「教師」と言う身分で仏教を守って来ました。

ネワール人が信奉、修行している仏教は、他の仏教とは異なる特色を有しています。それは仏陀の生誕地が現在のネパールであるため、多くの人は、今のネパールに流伝し保護されてきた仏教は、当時の仏陀の原始教法最も近い教義であると信じている点です。

ある人は「ネワール仏教は金剛乗の源であり、チベット仏教の母でもあり、世界で唯一のサンスクリット語を主とする大乗仏教である」と言い、スクラ サガール シュレスタ(Sukra Sagar Shrestha)教授もこの説に同意はしていますが、「真の金剛乗の源はカトマンズではなく、インドのカシミールから伝来したものである」と述べています。源はカシミールですが、イスラム教徒が入って来た後、金剛乗は徐々にカトマンズに浸透して行き、多くの大師も皆カトマンズにやって来て、金剛乗はカトマンズで大いに盛んになり、その後チベットに伝えられたのです。

つまり、カトマンズの金剛乗はチベット仏教より早く伝えられた訳ですが、様々な理由でネワール仏教は、チベット仏教比べて、伝わり方が遥かに弱かった為、多くの人々は「金剛乗はチベット仏教である」と思っていました。タム(Sarbottam Shrestha)医師は「これは、例えば当時、日本人が禅宗を西洋にもたらしたため、西洋人は皆、禅宗の源は日本だと思っているのと同じようなものです」と話しています。

現在言い伝えられているのは、釈迦牟尼仏により直接伝えられた「ネワール仏教」は、恐らく世界で最も悠久な歴史を持つ仏教流派であり、仏教の金剛乘が最も早く伝承されたものであると伝えられています。その神秘的なベールと豊かな内容は、今後の人々の探索と研究によって開かれることでしょう!

仏陀の子孫の釈迦族がネパールに居るという伝説

ネパールには世界唯一の「釈迦族」がおり、釈迦牟尼仏陀の子孫に当たる家族がいるという言い伝えがあります。スクラ サガール シュレスタ(Sukra Sagar Shrestha)教授は、釈迦族は、仏陀の直系の子孫ではなく、当時のシッダールタ太子(後の釈迦牟尼仏)が出家し、また唯一の実子-ラーフラも出家したため、直系の後代は無いため、「釈迦族」というのは、恐らく仏陀の釈の親戚や朋友の子孫を指すのでしょうと話しています。

タム(Sarbottam Shrestha)医師は、ネワール人の中には、「釈迦」(Sakya)の姓を名乗っている人がいますが、歴史の観点から見ると、仏陀の時代にルンビニで政治の衝突が起こり、この事件のきっかけで、一部の釈迦族が逃げ出し、其の中のまた一部がカトマンズにやって来ました。ネワール人の中で「釈迦」の姓を名乗っているこれらの人々は、当時、釈迦牟尼と血縁関係にあった人達だったと考えられます。「しかし、現在私達の理解する限りでは「釈迦」の姓の人達全てが、ルンビニからやってきた訳ではありません。ネパールのリッチャヴィ朝の時代、国教は仏教で、多くの人々が仏教を信仰していましたが、マッラ朝に至ると、仏教は国教ではなくなり、多くの出家僧が強制的に還俗させられ、その上、異なる時期に於いても一部の国王は、やはり出家僧に還俗を迫り、還俗した後の人々は、姓を「釈迦」としました。ですから私達が、今出会う釈迦族が同じ血統を有している訳ではありません。白人や黒人、または黄色人種、ある人達はインド人……と様々です。」と話しています。

釈迦族は仏陀の時代から今日に至るまで、仏教を信奉し続けてきました。2000余年以来、政治的に国王や大臣が、例え全てヒンドゥ教徒で、彼らの師がバラモンであったにしても、仏教は釈迦族の信仰であり、常に仏教文化を保存し、延長継続してきました。これを可能にさせたのには2つの要因があります。1つ目は仏教の特質にあります。それは仏教が説く包容心、慈悲心です。統治者との衝突や対立を避け、たとえ抑圧されても反抗しないのです。次は仏教が説く因果応報・輪廻転生・善悪有報の教えです。この点についてはヒンドゥ教と同じです。このため、両者は比較的融合し易いのです。

スクラ サガール シュレスタ(Sukra Sagar Shrestha)教授曰く、「当時、仏教徒のみが木彫や石彫の技を有しており、ヒンドゥ教徒には、その技が無かったため、以前王宮の彫刻は全て釈迦族が製作していました。国王がヒンドゥ教の信奉者であっても、釈迦族は巧みに仏教の菩薩仏像を彫っていたのです。或いはこの行為は、知らず知らずの内に仏教の存続をはじめ、仏教とヒンドゥ教の多様な融合を促していたのかもしれません」と。

パタンの重要性

昔から今日までの仏教学術センター

ネパールの四大観音寺の一つであるラト・マチェンドラナート寺院はパタン(Patan)にあります。二千余年前、ここは王城の所在地でした。インドのアショーカ王がこの地にやってきて、王城の中心を囲むように東、西、南、北にそれぞれ仏塔を建てました。現在ダルバール(Durbar)の付近にもアショーカ王の塔があり、パタンはネパールの仏教の重要な発展基地という事ができます。パタン(Patan)はまた、古今の仏教学の中心であるだけではなく、数多くの貴重な仏教芸術を保存し続けて来たのです。

スクラ サガール シュレスタ(Sukra Sagar Shrestha)教授のお話によると、昔のパタン(Patan)`では、大勢の現地人(ネワール人・釈迦族)が自らの手で寺院を建立し、それぞれの家がお金を出し合い、自分達の寺院を守ったそうです。パタン(Patan)の人々は、仏教芸術の表現の面でも相当優れており、金の装飾品から石彫、木彫まで、仏像作りから絵画までと、各領域で多くの専門家の存在が見られます。

パタン全域に花開く仏教芸術

カトマンズとチベットは、早くも八~九世紀頃から密接に交流を重ねていました。チベット人はパタン(Patan)の人々が芸術工芸面に殊に優れていることを知っており、パタン以外に出来る人がいないため、常に多くのパタンの人に仏像や法器などの製作を依頼していました。チベットの気候は非常に寒く、金粉が融解し難いため、カトマンズに持って行って製作してもらい、完成後、送り返す方法を取っていました。こうして当時のパタンは裕福になりました。今でもパタンでは当時作られた鍍金の仏像、屋根が鍍金の寺院等が数多く見られます。パタン(Patan)の釈迦族のこうした貢献は甚大で、更にパタンに黄金寺院も建立した程です。

アニコ伝説

パタンの人の秀でた仏教芸術の才能は遠く中国にまでも伝わりました。中国元朝の著名な建築・彫刻家アニコ(Araniko、1245-1306)はネパールのパタン出身です。西暦1260年、仏法を崇拝する元朝の世祖フビライ・ハーンは、チベット仏教サキャ派五代目の法王パスパに、吐蕃に黄金塔の建立を依頼しました。パスパはネパールの工匠を招聘し、ここに於いてアニコは80数人の工匠を率いて、チベットへ赴き、黄金塔を建立しました。この時からアニコは中国で、45年間にも及ぶ仏教建築芸術の歳月を展開することになったのです。この45年間にアニコが中国で設計し建築したものは、合わせて仏塔3本、寺院9堂、道観1堂、祀祠2軒、その他数え切れない程の彫像があります。また現在の北京明応寺の白塔もアニコの手により建立されたものです。

アニコはまた、多くの建築や工芸に関する人材を養成しました。例えば元朝の著名な彫刻家の劉元は、アニコの弟子の一人です。西暦1273年、フビライ・ハーンはアニコの功績を褒め称え、アニコに匠人総監督と銀賞虎符を賜いました。アニコが逝去した後、「涼国敏恵公」の号が与えられました。アニコはネパールでは民族の英雄とされています。アニコの中国への影響は今も衰えることはなく、2010年の「上海国際博覧会」に於けるネパール館は「アニコセンター」と命名されました